平良恒雄
沖縄県工芸士 / 平成13年 認定番号20
平成23年度沖縄県優秀技能者知事表彰
- 昭和23年5月15日宮古島の隣りの伊良部島で生まれる
- 伊良部小学校の時に三線を4つ作る
- 伊良部中学校を卒業
- 三線を本格的に作りたくて、沖縄本島に出てくる
- 親戚の紹介で見学した琉球ガラス工房で「これが男の仕事だ!」と思いガラス職人を目指すことを決意し、即入社
- 16歳から3年間の下働き~吹き竿磨きと型押しの日々
- 吹き手になり、琉球硝子製作所に転職そこの社長(のちの琉球ガラス村の大江安蔵理事)と板ガラスの製造開発を行う
- 親富祖民芸ガラスなどを経て、昭和58年、小規模ガラス工場6社が結集し設立した琉球ガラス村の前身である協同組合の立ち上げに参加
- 琉球ガラス村の三代目工房長となり現在に至る
- ガラス職人になっていなかったら自信を持って三線職人!
三線作り
宮古島の隣りの伊良部島で生まれた平良さん。小学生の時に、民謡をしていた親戚のおじさんが自分で三線を作ったのを見て、自分も作ってみたいと見よう見まねで三線作りに挑戦したそうです。もちろん空き缶で作るカンカラ三線ではありません。パーツを組み立てる三線プラモデルでもありません。今から50年ほど前にDIYショップはありませんでしたので、平良少年は海岸に行きます。
海岸で平良少年は、ヤシの実を拾います。沖縄方言でチーガと言われる胴の部分は、ヤシの実をくり抜いて作るそうです。それに障子紙を貼ってバナナの皮の樹脂を塗るという工程を何度も繰り返して仕上げていくそうです。手製の竿を取り付けてテグスの弦を張る、その三線は素人のしかも小学生が作ったとは思えないほどのいい音色だったようです。平良さん自身も自分で弾けるようになって、更に製作意欲が湧いて、結局小学生時代に4つの三線を作ったとのことですから、当時から根っからの職人だったってことですよね。
「中学を卒業した時に三線職人になりたいと思って本島に来たんだよ。我流じゃなくて本当の技術を学びたかったし、ヘビの皮とかを使ってもっともっといい音を出したかったんだよ。」と平良さんは少年時代に戻って目をキラキラさせながら語ってくれたのでした。
掃除をしない
中学卒業後、三線を作りたくて沖縄本島に出てきた平良さんでしたが、思うような三線工房や、この人にならという三線職人にはなかなか出会えませんでした。そんな時に浦添の沖縄硝子という琉球ガラス工房で梱包の仕事をしていたおばさんの紹介で、そこの工房を見学させてもらうことになりました。宮古にはガラス工房はなかったので、始めてみる世界に大感激、ひと目見て“これがやりたい!”“これが男の仕事だ!”と衝撃をうけて、すぐにそちらの工房にお世話になったそうです。
工房に入って3年間は下働き。現在とは違って本当にその3年間はガラスを触ることがなかったようです。来る日も来る日も先輩の吹き竿を赤レンガで磨いて、型押しをして、先輩職人に怒鳴られて、下駄で蹴っ飛ばされて、リンを磨くという毎日だったようです。今と違って、休み時間の練習なども許されていなかった時代でした。「材料が貴重な時代だったからね。道に空き瓶が落ちていたらみんな喜んで拾ってきたよ。竿に残ったり、落ちたガラスも分別してリサイクルしていたよ。全てを再利用するから床にはゴミは全く落ちてなかったくらい、だから掃除なんかしたことなかったね。」と当時を振り返って語ってくれました。
数多くの賞を受賞している平良さんに「今まで最も嬉しかったのはいつですか?」と質問をすると即答で「下働きを3年して初めて玉とりをした時が、最も感激した瞬間だね。」と答えてくれました。「溶解窯からガラス素地を取るということは、“同じ釜の飯を食う”みたいな感じで、職人の仲間入りができたと思ったね。もちろん初めて窯に竿を入れさせてもらったんだから、まだまだ職人とは言えない頃の勝手な思いなんだけどね。」とその時の感激を思い出しながら素敵な笑顔で話してくれました。
板ガラス
ガラス工房で10年働き、吹き手になっていた平良さんは琉球硝子製作所の大江社長(のちの琉球ガラス村の大江安蔵理事)と出会いました。大江社長は、攻めの経営を続けてきて、琉球ガラスの普及に努めた一人です。
例えば、それまで琉球ガラスではなかった『赤色』の調合を成功させて、『ガラスの花』を作りました。花が売れれば花瓶も売れると、復帰後落ち込んでいた琉球ガラス業界がまた伸び始めます。また円高ドル安が進み、それまでのように米軍関係者が沢山買い物ができなくなって、日本本土からの観光客をターゲットにし始めた時にも『ガラス工房を見せる観光資源』とし、観光タクシーや観光バスのコースにしたのも大江社長です。琉球ガラス製作所で仕事をすることになった平良さんは、大江社長と一緒に板ガラスの製造開発を行ってきました。「始めて作るものだから、失敗の連続でね。今と違って徐冷窯の温度設定もきちんとできていない時代だったから、どうしても冷ましている途中で割れちゃうんだ。大江さんと“吊るして冷ます”というアイディアが出た時は、前祝いだと宜野湾からハレーしていた糸満までタクシー飛ばして飲みに来たくらいうれしかったね。」と当時のご苦労を話してくれました。
「大江さんは“現場が強くなくてはならない。そうでなくては生き残れない”というのが口癖。できないことをやりたがる人で、そのためには研究費を出し惜しみしない人でしたよ。大江さんと出会ったことで、毎日楽しく仕事が続けられていると思うね。もちろん大江さんの考え方は、自分の考えの核になる部分だね。」と素敵な出会いの話を熱く語ってくれました。
お客さんの目
工房長として忙しく働く平良さん。よりよい琉球ガラスを作っていくために様々な仕事をしています。原料や窯の管理や、製品の質や量の管理、他セクションとの調整や職人の人事教育、取材対応など管理職としての顔。特班にくる特注品の製作など職人としての顔、そして『深海』をはじめ、自分自身の作品を作るガラス作家としての顔。きっともっともっとあって忙しいことでしょう。
そんな忙しい平良さんが大切にしているのは、お客さんの目。「琉球ガラスを作っているところを初めてみた時の自分自身の感動を観光客や地元客にも味わってもらいたいからね。出来る限り、お客さんの目を意識しながらガラスを作っているよ。お客様が感動してくれるっていうことは、職人にとってもちろんプラスで、いい刺激になるんだよ。」と話してくれました。「それからグラス作り体験は、元気をもらえるね。体験するお客さんは慣れないということもあるし、熱いガラスを使うので、皆さんかなり緊張しているよね。だから終わった後の安堵感と達成感で、とってもいい笑顔をするんだよ。喜ぶ顔を見ると元気をもらえるね。」と平良さんの若さの秘密(?)を教えてもらいました。
「そうそう、修学旅行の女子高生とかともグラス作り体験の合間に食べ物の話などをよくするね。沖縄料理で美味しかったとよく聞くのは、沖縄そば・ミミガー・サータアンダギーかな。」とホットなランキング生情報も教えてもらっちゃいました。
聞き手:和家若造
※肩書は取材当時のもの