CRAFT

琉球ガラスについて

上原正

沖縄県工芸士 / 平成19年 認定番号71

  • 昭和41年3月18日沖縄県糸満市に生まれる
  • サバニに乗って漁をする海人(うみんちゅ)の父と獲った魚をさばいて売る母に育てられる
  • 祖父は伝統的小型船サバニを作っていた
  • 高校を2年で中退
  • 16~19歳は県内外でアルバイト
  • もっとも稼いだのは東京の山谷で見つけた日雇いの鉄筋とび
  • その時は横浜市鶴見の沖縄人街の友人宅に間借りスーパーで泡盛を買って飲んでいた
  • 20歳の時に沖縄に戻っていた時に会った友人に誘われてまた関東に
  • 片道の航空券を買ったらお金がなくなったので、帰りのチケットを購入しようと埼玉県の金型部品の製造会社でアルバイト…と思ったら正社員となり、検査部門・営業部門で2年間勤務する
  • 1986年22歳の時に沖縄に戻る
  • 3ヶ月後にまた県外に行くまでの“つなぎ”の仕事として、売店で仕事をしていた、いとこの紹介により琉球ガラス村で仕事をする
  • いつのまにかガラス作りにはまり、現在に至る
  • ガラス職人になっていなかったら…考えたことがないのでわからないが、海人だけにはなっていないだろう

きっかけ

22歳の時に琉球ガラス村に勤めるようになって、初めは雑用ばかり。危険を伴う仕事場で初心者には当たり前のことである。3ヶ月の試用期間で辞めて、県外の季節労働に行こうと思っていた上原さんには、その仕事は苦にならなかった。ただ高卒で入社していた2歳も3歳も年下の先輩の態度があまりにもデカかったのは気になっていた

そんな頃に、とある上司が「ある程度できるようになったら、吹き竿を吹かしてしてやる」と言ってくれた。先輩風を吹かせるメンバーを見返すには実力を付けるしかないと思っていたので、これはチャンスとばかりに必死にがんばった。ほとんど素人に近かった上原さんが仕事を覚えるには時間をかけて繰り返すしかない。通常の業務の時間にはもちろん自分の仕事があるので、業務の後の2~3時間と朝5時からの早出を行った。 1000℃を超える溶解窯は一度冷ますと再度温度を上げるのが大変なので、24時間燃え続けており、夜間は次の日の原料を溶かしています。仕事の後の2~3時間は、その日の余った材料を使わせてもらい、最後に次の日の原料を窯にいれて帰ったそうです。溶解窯の蓋をあけるのは朝5時で、その際に蓋につく捨てざるを得ない素地がでるそうで、それを利用して練習を繰り返していました。

「でもいくらやってもOKがでないんだよね。でないっていうか、見てくれなかったからね(笑)。こっちもなにくそと思い、何度もやっているうちに琉球ガラス作りにはまってしまっていたね」と上原さんは懐かしそうに語った。

考える

「ガラスは作ることも楽しいけど、考えることはもっと楽しい」と本当に楽しそうに語る上原さん。美術館などでも気に入ったものを10分でも20分でも見ていたい人…見ているうちに、その作者のやってきたことが見えてくる。そして自分だったらこうすると常に考えるそうです。団体行動じゃ無理だよねと笑った後に、本当は底や後ろ側、花器なら中の空間なんかを見たり、触ったりしたいので、ケースに入ってロープまでされて完全防備されている美術館だとストレスがたまっちゃうよと続けて言った。

普段も使う人のことを常に考え、場所や場面や家族構成なんかもイメージしながら楽しんで作品作りをしているとのこと。そして使う人のことを考えることは楽しいけどもっと楽しいのは、“使う人のことを考えて楽しんでいる自分をもう一人の自分が見て楽しむこと”らしい。つまり自分自身を客観的に見ることができるということで、失敗した時も、普通はそればっかり考えちゃうけど、もう一人の自分が客観的に見ると、冷静に対応することができ、前向きに考えることができるそうです。

実は上原さんは展示会への出展が極端に少ない。時間の制約があり、楽しむ余裕がなくなるということもあるが、展示会のために作るっていうは、本当の作品作りじゃない感じがするからだそうです。いいものができた時がたまたま展示会のタイミングで出展したこともあるようですが…ほとんど展示会の前に売れちゃうらしいです。

職人像

20歳の時に勤めた埼玉県の工場用部品の製造会社。上原さんは検査部門や営業部門で仕事をしていましたが、そこの職人さんは恐くて迫力があったと真顔で語ってくれました。部品の調整は全て手作業で、大きなローラーでモノを作っていく工程は、まだ10代の上原さんには“プロの技の威厳”と感じたようです。更にこの職人さんたちは厳しいオーラが出ていて、まだ半人前の若者とは口も利いてもらえなかったとのこと。上原さんの抱く職人像に少なからず影響を与えた2年間だったようです。

後でわかったことですが、職人さんたちに口を利いてもらえなかったのは上原さんのせいではなく、仕事に集中していたということだったようです。今では上原さん本人も周りが見えなくなるくらい作品作りに集中することもあるそうです。しかしお客様の目が常にあるオープン工場での仕事はそればかりではなく、観光業の琉球ガラス村ではお客様に楽しんでもらおうという意識が常に先行するようです。溶けたガラスの作業を初めて見たお客さんが驚いて、目が点になっているのがよくわかるようで、ついつい「触ってみますか?」と声をかけることも多いようです。もちろんとっても熱いので良い子は触ったりしないように…。

先輩の職人として、今の若いメンバーには「何でこの会社に入ってきたのか?何でここにいるのか?を常に考えて、足元をしっかりみてほしい。」というメッセージを残してくれました。

たまご

琉球ガラス村グループはこの度、OKINAWA新ブランド『hapo』をスタートさせた。東京の神宮外苑で開催された英国で最も有名な現代インテリアデザインの見本市『100%デザイン』に出展し発表したが、そちらに出展した「たまご」型の照明器具を作ったのは上原さんである。

若造も見ていてなんだか癒される感じがする。硬くて冷たいガラスなのに優しい温もりを感じるのは、その絶妙なバランスからくるのかもしれない。ガラスのたまごの中の空間から様々なメッセージが伝わってくる感じがします。上原さんに制作時の話を聞くと「注文はバランスのいい、温かみのあるたまごってことだったけど、産みたての温かい卵をイメージして、最終的にはこの手の感覚かな?作りながら“こうした方がきれいだろう”ではなく、“こうした方が気持ちいいだろう”という尺度で作っていたよ」と教えてくれました。

最後にこれから作りたいものをたずねると、「買った人・使った人が笑顔になるようなもの」「目で見た後にずーっと印象が残るもの」と答えてくれました。そして現在やっている売店に新作を出し続けること。芸術品の一点ものではなく、売店で手軽に買えるもののバリエーションを広げていきたいということでした。

聞き手:和家若造

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