漢那憲作
沖縄県工芸士 / 平成19年 認定番号69
- 昭和28年2月10日沖縄県那覇市で誕生
- 与儀小・那覇中・那覇高校を卒業
- 大阪の食品メーカーに就職、京都のデパ地下で漬物を売る
- 十二指腸潰瘍になり沖縄に戻り、失業保険をもらいながら半年間療養
- 再び大阪で真冬の山の中の道路工事の警備員を一か月
- とあるガラス工房で70歳を過ぎた老職人の技に魅せられる
- 老職人の工房に出入りしながら、東京で一年間日雇い労働をする
- 東京都葛飾区のガラス工場に就職
- 6~7年間、完全分業の工場でひたすらグラスを作り続ける
- その工場がつぶれて沖縄に戻る
- 33歳で琉球ガラス村に入社、2~3年で吹き手、7~8年で仕上げ、2年前から班長になり、現在に至る
- ガラス職人になっていなかったら…う~~ん想像できないな~~!
日雇いの日々
漢那さんの職歴はすごいです。京都のデパートの地下食品売り場では、お客様とデパート正社員と食品メーカー本社の三角板挟みになりながら十二指腸潰瘍になるまで漬物を売り続けたり、真冬の関西の山道で凍えながらの道路工事の片側通行の警備員をしたり…。12時間勤務の警備員の仕事を終えて帰ろうとすると、「欠員が出たのでそのままやって」とお願いされて、その後12時間勤務したら、今度は自分の勤務が回ってくるので36時間連続で働いたり…。職歴というよりも職歴に出てこない部分がすごいです。
「東京でこれから何をしようかとブラブラしている時に、とあるガラス工房で70歳を過ぎた老職人の技に魅せられちゃってね。工芸家がチョークを使って、その場で書きながらデザインの説明をしているのを聞いて、老職人はすぐ作るんだよ。その人の時代にはそんな職人がきっと沢山いたんだろうけどね。既に流れ作業で大量生産して儲けることが「良し」とされていたので、とっても刺激的でこうなりたいなと心から思ったよ。」と懐かしい話をちょっとだけ大きな声で語ってくれました。
「何度もその工房に見学に通っているうちに、手伝いしながらガラス作りを教えてもらうようになったんだよ。こっちが勝手に行っているんだから給料なんて出ないよ。小さな工房で、2~3ヶ月に一回の20日間だけ窯に火を入れるので、その時に集中して通って、それ以外は日雇いの仕事をしていたんだよ。」とゆっくりと語った後に、「この一年は自分にとって貴重な年だったね。老職人との出会いと日雇い労働日々。いざとなれば何でもできるというその後の人生の自信になった一年だったね。」とすごい内容とは逆にまたまた静かに語ってくれました。
東京ガラス工場
漢那さんが、日雇い労働をやめたのはガラス工場に就職が決まったからです。東京都葛飾区にあった完全分業の工場で毎日ひたすらグラスを作り続けていたそうです。無色透明なコップならガラスの下玉取りが3名、吹き手が4名、運ぶ人が1名の計8名で一日2000~3000個、ワイングラスなら計5名で一日 700個ぐらい作っていたそうです。
琉球ガラス村では仕上げをした後に「とめ冷まし」と言って徐冷窯で24時間かけて冷ましていますが、そこでは仕上げ前の吹いただけのグラスを切り離してベルトコンベアーに乗せて徐冷窯の中を通すそうです。1時間ほどで冷めたグラスを段ボールに入れて他のセクションへ移動、ガラス職人ではない人が「後加工」で飲み口の高さを合わせて火切りして、磨いて仕上げていたそうです。 「老職人に影響を受けた創作意欲がなくなったわけじゃないけど、この工場での仕事は給料をもらうためと割り切っていたね。逆にお金もらってガラスに触れることに感謝していたよ。」と漢那さんは、ある意味組織の一コマになりきった6~7年間を振り返ってくれました。
「結局はその工場つぶれちゃって、沖縄に戻ってきたんだけどね。33歳で琉球ガラス村に入ったけど、最初はボンテができなくて困ったというか、思いっきりバカにされたし、経験者として疑われたよ。」と当時はシャレにならなかったであろうことを笑いながら話してくれました。
左利き
漢那さんが吹き手になってから、糸満の琉球ガラス村工房にギャラリーがオープンすることになったそうです。それまでは職人展など開催しても仕上げを担当する班長しか出展させてもらえなかったようですが、ギャラリーへは吹き手以上の人たちが作品を作ることになり、漢那さんも初めて作品を出展することになりました。
「沢山アイディアはあったけど、技術がなかったのでやれるものから順番に一つ一つ手がけて行ったよ」と漢那さん。「技術というか、本当は左利きなので仕上げ用の箸やハサミをほとんど使えなかったからね。“吹き”だけでできる作品ばかりを作っていたね。」とこれまたびっくりの告白でした。
「40歳過ぎてから、右手で仕上げをできるようにしたんだよ。その頃、もっと作品を作ってほしいと言われるようになってきて、自分自身も創作意欲がわいてきたからね。」と漢那さん。「今でも竿に残ったガラスは左手ではらっているよ。子供の頃、食事の時に左手で箸を持つと親に叩かれて直されたのを思い出したよ(笑)。」と苦労を苦労と思わせない表現で説明してくれました。
ゲテモノ?
「今の若い職人さんたちに一言」という若造の質問に漢那さんは、「周りに参考になる作品が沢山あるから恵まれているよね。でもあり過ぎて自分が一から考えるという第一ステップを踏めないので、後から苦労するかもしれないね。」と答えた後に、「琉球ガラス村の20年の歴史が作品を作りきったってことかな?」と自問自答するように話してくれました。
「でもそこから新しいものを考えていかないといけないからね。自分でも何を作っても似たりよったりになるので、違うものを探し過ぎてゲテモノになっちゃうことあるからよ(笑)。作った時は自信満々だけど、展示会で人気がない。こっちも工房を離れて、展示会場で冷めた目でみたら、くっだらないものだったとかね…。」と続けて自分自身の失敗を話してくれました。
「今後は自分の世界のものをゆっくりと作っていくよ。小さくて一個で完結しているもので、置いてあるのを見るだけで楽しいもの。そういうものは自分でも楽しく作れるからね。」と最後に今後の抱負を語ってくれました。
聞き手:和家若造