友利龍
沖縄県工芸士 / 平成28年 認定番号126
- 昭和54年10月7日沖縄県那覇市で誕生
- 具志頭小・具志頭中・豊城南高校を卒業
- 中学・高校と駅伝部で活躍をする
- 高校でロックバンドを組み22歳まで活動をする
- 高校3年生の夏から母が働く琉球ガラス村でレストランやゲート(観光バスでのお客さんにサービス券を配布)などのアルバイトをする
- 卒業後もアルバイトを続け、20歳の時に工場に入り、職人を目指す
- 同じく20歳の頃からサーフィンを始める
- 2006年夏から吹き手となる
- ガラス職人になっていなかったら…バンドを組んでミュージシャン
サーフィン
友利さんは、サーファーの琉球ガラス職人です。サーフィン歴は7年。ガラス村の工場に入った年に始めているので、ガラス職人歴と同じ年数です。糸満の琉球ガラス村の近くの海岸にはサーフィンのいいスポットがあり、潮のタイミングの合った時には、毎朝波乗りしているそうです。朝5時半から7時半までの2時間やって、しっかり8時から出勤しています。
若造は知りませんでしたが、サーフィンには、世界共通のルールが存在するそうです。『ワンマンワンウェーブ』と言って一つの波には一人しか乗れない。そして『波に先に立った人が優先で乗ることができる』という決まりです。「じゃー素人の若造はいつまでたっても波乗りできないじゃないですか?」というホントにやりたいから聞いているのかよっていう軽めの質問に、友利さんは「誰でも始めは初心者ですよ」って優しく諭すように説明してくれました。 熔解窯から熔けたガラス素地を取るのも一人ずつ。『ワンマンワン窯』とは絶対いいませんが、なんだか似てると思って、素地を取る順番ってあるのかなと思い、友利さんに聞いてみました。上下関係がはっきりしている職人の世界なので、年令とか、役職順なんて答えが返ってくるかと思いきや、『台付けや手付けの作業が優先』という暗黙のルールがあるとのこと。「理由は、時間がかかると温度差が広がってうまくくっつかない…というか割れてしまうんです。特にワイングラスなどの細いものの台付けは急いで作業する必要があるんですよ。」とまたまた優しく説明してくれました。
「でも一度も私ワイングラスですから先に…なんて聞いたことないですよ」という若造の浅はかな質問にも「誰が何を作っているかなんてことは、もちろんみんなわかって作業していますよ」とまたまた優しく、そして自信にあふれた口調で説明してくれました。
バンド
友利さんは、高校の頃から22歳まで、学校の友人たちとパンクロックのバンドを組んでボーカルを担当していたそうです。自分たちの高校の学校祭やイベントはもちろん、他校の学校祭などにも呼ばれるほどの腕前で、高校卒業後はライブハウスなどでも活動していたそうです。バンドを解散した理由は、メンバーの一人が結婚して、続けられなくなったから。それまでいつも4名で活動してきたので、メンバーの入れ替えなんて思いもしなかったので、全員一致で解散を決定したそうです。
バンド名をたずねると、友利さんは困ったように口を閉じて考え込みました。あれ?なんかまずいこと聞いちゃったかなと思っていたら、「実は、正式なバンド名はなかったんですよ。いいのが思いつかなくて、ライブの度に仮の名前で出ていましたよ。」と友利さんは当時を思い出しながら話してくれいました。「例えば、どんな名前だったんですか?」と聞くと、「う~~ん、覚えているのは『パーリラ』かな」とのこと。「それは仮でよかったですね」と喉まで出かかりましたが、こらえて「そうですか~」と相槌をうった若造でした。
その後、ほとんど活動していなかったようですが、2005年に違う気の合うメンバーとバンドを組んだそうです。気の合うというのは家族のことで、お姉さんの結婚式の余興にファミリーバンドを結成して、BEGINの『島人ぬ宝』を演奏したそうです。ちなみに友利さんはギター、弟はドラム、妹はボーカル、お父さんはベース、お母さんは三線を担当。音楽一家のすばらしい家族だなと感動しながら、「バンド名は『パーリラ』ですか?」と聞く若造に、苦笑いしながら否定する友利さんでした。
火の番兵
友利さんはビール党。外で飲んだら、運転代行は使わず、車で寝ちゃうことも多いらしいです。そして翌朝会社に直行~~はしません。その前にしっかり2時間サーフィンしてから、会社に向かうそうです。もちろんサーフボードはいつも車に積んであります。「元気ですね」って言ったら、通常勤務の後に夜勤で泊まって、次の日また通常勤務することもあるとのこと。
夜勤の仕事とは、翌日使うガラスの原料を一晩かけて熔かすことで、熔解窯に原料を入れて『火の番兵』をするそうです。数時間は仮眠をとることができるようですが、やっぱり疲れますよね。友利さん曰く、最もつらい仕事は、朝5時からの徐冷窯で冷ましていた商品の取り出しだそうです。大変さを察した若造は、「狭い場所に出入りしながらの作業は大変ですよね。数も多いだろうし、大きな作品があると重いでしょうし、しかも全て割れものという取り扱い注意ですしね。」と思いつく限りの大変さを言ってみたが足りなかった…。
もっとも大変なのは暑さ…というよりも熱さ。「徐冷窯で冷ましているって言っても、冷たくなってるわけではないですからね。もちろん素手で持つと火傷しちゃいますし、ゴム製の靴底だと普通に解けちゃうくらいの熱さの中での作業なんですよ。」って友利さんは、涼しい顔で説明してくれました。
駅伝
走ることが好きだったと語る友利さんは、中学・高校と駅伝部だったそうです。なぜ陸上部じゃなくて、駅伝部?っていうのが気になったのですが、タスキをつなぐ楽しさ、レース展開の面白さ、長距離の駆け引きなど、駅伝の魅力をたっぷり語ってくれました。
高校3年生の時に、駅伝をやめたのは伸び悩んだからという友利さん。「それまでは、走れば走るほどタイムが速くなって、走ることが楽しくてしかたなかったんです。でもある時から全くタイムが伸びなくなって、そのうち段々とタイムが悪くなって行っちゃったんです。スランプだったのかもしれないんですけど、楽しくなくなったので、やめてしまいました。」とその理由を語ってくれました。
しばらくは走ること自体に興味がわかなかったようですけど、4年前からNAHAマラソンや尚巴志ハーフマラソンに毎年参加して、楽しく走ることを再開しています。タスキはいらないの?なんて野暮な質問はしないでください。友利さんは毎日、琉球ガラス村の工場で、職人から職人へとガラスのタスキを渡しているんですから…。
聞き手:和家若造